2010年01月27日

幕末歩兵隊

野口武彦著

「幕府歩兵隊」







いつの頃からか、軍事史に興味をひかれるようになり、古今の戦記・戦史ものを洋の東西を問わず、読みふけっております。

とくに、気になる戦争や戦闘になると、かなり広範に資料を読み漁っているものもあり、以前このブログでも取り上げた第1次大戦劈頭(へきとう=はじめのころ)のタンネンベルクの戦いなどは、英語文献に加えて、ドイツ語文献にまで手を広げている次第。

ま、んなことをしても、何の得にもならんのですが。

「好奇心が猫を殺す」と誰が言ったか言わないか、私の場合も、飢えのような、あるいは、のどの渇きのような知的好奇心が、私をビタ一文にもならないリサーチに駆り立ててやまないのです。

そんな「私的」研究対象として、今、一番ホットなのが、我が国幕末期、薩長と旧幕府勢力が戦った戊申戦争(ぼしんせんそう)の火ぶたを切った激戦『鳥羽伏見の戦い』です。

と思えば、今日は、1月27日。

鳥羽伏見の戦いは、慶応4年(1868年)の旧暦1月3日(現在の暦で1月27日)に、戦いの火ぶたが切って落とされたのです。

学校の教科書だと、ほんの一行書かれているかいないかの程度の扱いのこの戦い。

白虎隊で有名な会津若松の戦いや、函館の五稜郭の戦いといった、同じ戊辰戦争中の戦いに比べても、扱いが地味であまり注目されているようにはおもえません。

そのせいか、鳥羽伏見の戦いについては、誤った先入観が世間に広まっているように思います。

つまり、鳥羽伏見の戦いは、「進んだ武器を持っていた薩長軍が、兵力には勝っていたが時代遅れの武器で戦った幕府軍をあっさりやっつけた」というもの。

イメージ的には、鎧かぶとといった古色蒼然たる武士たちが刀を振りかざして敵陣突入、これを最新ライフル銃で武装した薩長軍が一斉射撃でなぎ倒す、、、そんな感じですね。

トムクルーズと渡辺謙の映画「ラスト・サムライ」のラストのシーンそのままです。

しかし、です。

現実の鳥羽伏見の戦いの様相は、巷(ちまた)の思い込みとはまったく異なったものでした。

上に紹介した野口武彦先生の「幕府歩兵隊」は、そんな鳥羽伏見の戦いの史実を、資料の精確な読み込みを通して、詳細かつ生き生きと再現しています。

では、鳥羽伏見の戦いの実像はどのようなものだったのでしょうか?

まず、本のタイトルにもなっていますが、「幕府歩兵隊」とでもいうべき近代的歩兵隊を幕末の徳川幕府は有していました。

ペリー来航以前、まだ鎖国体制を強固に維持していた頃から、江戸幕府は軍制改革を進めていたのです。

アヘン戦争で清国がイギリスに大敗したという知らせは、いち早く幕府にも伝わり、衝撃をもって受けとめられていますし、西南雄藩が独自に西洋式軍備を整備しつつあることについても、幕府は脅威に感じていたのでしょう。

高島秋帆(たかしましゅうはん)による西洋軍備必要性の献策もあり、幕府は、着実に西洋式すなわちモダン・アーミー(近代的軍備)の整備を進めてゆきます。








※高島秋帆による西洋式軍備の実演(1841年 現在の板橋区高島平にて)



かくして設立なった幕府による西洋式軍隊、すなわち伝習隊などの「幕府歩兵隊」は、当時の西洋陸軍における標準的な武器を支給され、フランス人の軍事顧問から軍事教練も受けて、近代的軍隊としての実質を整えてゆきました。

こうしてみると、幕府軍=刀槍または時代遅れの火縄銃を持ったサムライの集団というイメージは完全にまちがっていることになります。

それどころか、大政奉還の時点で、幕府軍における近代装備の兵士集団の規模(兵員数)は、薩長を凌駕していた。

さらに、幕府歩兵隊の一部兵士には、当時最新鋭の後装式の小銃を装備させていたようで、こうなると、薩長軍がふつうに保有していた前装銃(小銃の筒先から弾薬を装てんして発射する)より、武器の質では進んでいたことになります。

そして、19世紀半ばの世界陸軍で最強とされていたフランス仕込みの戦闘技術もしっかりマスターして実戦に生かしている。

鳥羽伏見の戦いでも、幕府軍は、最初こそ薩摩軍の一斉射撃によって動揺したものの、その後の展開では、歩兵隊を先頭にねばりづよい戦いを繰り広げています。

鳥羽伏見の戦いにおける幕府歩兵隊は、ヨーロッパの伝統的な戦闘方式である密集した戦闘隊形による攻撃前進を行ってもいるのです。
映画では、南北戦争を描いた「グローリー」という作品で、鳥羽伏見の戦いと同時代の戦闘の模様が再現されています。この映画の冒頭はアンティータムの激戦シーンですが、銃剣つきの小銃を構えた兵士たちの一群がひと塊りになって、直立して歩行しつつ敵陣に向けて進撃してゆく。身を遮るものなどなく、地にはって匍匐(ほふく)前進することもなく、まさに、敵弾の格好の標的です。次から次へと兵士が打ち倒されるが、にもかかわらず、兵士の集団は黙々と行進を続ける、、、
これが、当時の戦争の姿でした。
現代の戦闘とは全く違った、ある意味勇壮な、しかし、人命をものともしない残酷な戦闘を幕府歩兵隊も繰り広げたのです。

一方で、幕府軍には、たしかに伝統的なサムライ集団もいて、小銃の一斉射撃に対して、無謀な抜刀突撃を挑んでもいます。
一説に坂本龍馬暗殺の犯人とされる佐々木只三郎率いる見廻り組(みまわりぐみ)隊士による攻撃がそれです。
おそらく、見廻り組による捨て身の白刃攻撃があまりにも印象的なため、前述のような幕府軍についての先入観を生んだのかもしれません。

しかし、そんな見廻り組による自殺行為に近い白刃(はくじん)をふりかざしての白兵戦攻撃も、軍の中核である幕府歩兵隊が密集隊形を組んで、有効射程範囲内まで前進するための時間稼ぎだったという見方もあるのです。

いずれにせよ、鳥羽伏見の戦いにおける幕府軍の戦術展開は、時代遅れでも、非合理一辺倒でもなく、当時の西洋流軍学における標準といえるもので、薩長軍と比べてなんら見劣りするようなものではなかった、いやむしろ幕府軍の方が優れていた面もあるとさえいえるのです。

しかも、幕府軍は、薩長軍に比べて士気が低かったというようなこともなく、鳥羽伏見の戦いでは、戦闘開始時に全軍のさきがけをしていた部隊が壊滅に近い打撃をうけ、総大将が逃げ出しているにもかからず、幕府歩兵隊の各連隊は、戦場に踏みとどまり、粘り強い精強な戦いぶりを見せています。

にもかかわらず、4日間にわたるこの戦いで、幕府は軍事的に敗北し、徳川政権が急激かつ完全に崩壊するきっかけとなった、それが、史実です。

鳥羽伏見の戦いにおける幕府軍敗北の理由は様々に上げられていますが、結局、次の理由によります。

兵士や前線指揮官の質でも量でも優れていた幕府軍であったが、将軍徳川慶喜をはじめ、総司令官であった竹中丹後守など上級指揮官に人を得なかった。 

総司令官竹中丹後守は、幕府歩兵隊の先頭にいたのですが、戦いの火ぶたが切って落とされた時、乗っていた馬が暴走をはじめ、そのまま、後続の兵士たちをけ散らかし、踏みにじって、単身ずっと後方まで遁走してしまっている。
また、将軍慶喜は、鳥羽伏見の戦いの敗戦の報を受けて「大阪籠城、徹底抗戦」を叫んで、幕臣たちを感激させたにもかかわらず、その夜、ひそかに軍艦に乗って江戸ににげかえってしまっているのです。

鳥羽伏見の戦いにおける幕府軍の全体戦略もまずかった。
すなわち、京都への進撃路は複数あるにもかかわらず、一方向から大軍を進撃させた結果、帰って、道路渋滞を引き起こし、大軍であることのメリットを生かせないでしまっている。

せめて、もう一方向、亀岡方面から進撃する気配だけでもみせていたら、薩長軍は兵を二分するほかなく、結果的に鳥羽伏見では戦いの帰趨を左右するほどの大きな戦力差が開いた可能性もある、、、。

ま、歴史に「 i f (もしも) 」はつきものであるけれども、鳥羽伏見の戦いにおける徳川幕府逆転勝利の仮定は、想像し始めると実におもしろいものがあります。

それだけ、この戦いがどちらに勝敗が決するかわからない接戦だったわけで、、、

結局、薩長が滅び、徳川幕府が継続した可能性もある。

そうなったら、いまでも日本人はちょんまげをゆってたりして、、、

そうかんがえると、歴史の i f はおもしろいけど、考え出すと止まらない、、、きりのいいところで今日のお題はお開きと致しやしょう。


by らいおん  

Posted by らいおんまる at 20:47Comments(0)TrackBack(0)History of Japan